ききょうや会報「マリーネ12号
1991年平成3年7月21日発行の記事
当時25歳の私と上田先生
 使用されたポスターカラーと筆、本当に300円筆だった
   
 1/700WL海上自衛隊輸送艦しもきたの原画
2001年発売タミヤ、この絵のまま巨大ディオラマを作り
タミヤニュースの仕事をしたのを覚えている
 艦だけでなくハセガワの飛行機も先生だ
右下手前のブリティッシュファントム、懐かしい
   
 1/700WL H.M.Sヴィクトリアス(上)と
葛城(下)いずれもアオシマ、この夕日が最高
 私の大好きな絵のひとつ
1/700WLドイツ重巡洋戦艦プリンツ・オイゲン
2002年タミヤ
   
 1/700WL信濃、1971年タミヤの原画(上)と
試作画(下)、艦船の配置バランスが絶妙
試作画でここまで描くのが神業
 インクと画用紙による単色画
木製模型スーパーデラックスシリーズ愛宕
1963年タミヤ
 
 自身の絵を描いた金華丸、昭和19年11月14日マニラ湾、250機の敵機から3日間にわたり空襲され
被弾した敵機が墜落して大爆発、味方の3分の2が即死、船首にいるのが砲手だった先生と分隊長、
2人で海に飛び込み、手前のいかだに助けられた。右手の負傷はこのとき。
   
  アタックセブンシリーズのスカーレット アオシマ  ニューSFサンダーシリーズのサンダーセブン アオシマ
   
 1/700WL鈴谷、2003年タミヤ、このちょんちょん絵が大迫力を生み出すからやっぱり神業だ
   
  
 式典と挨拶される田宮俊作会長
  
 来場者全員に配られた形見分けの鉛筆、捨てられない先生の大きな遺品、田宮会長自ら取り分けた
   
    
 しきりに海を描かれた先生、敷設船津軽など仕事以外でも多くの絵を残された
    
 釣りをされたとはうかがっていないが
リールまで描く先生
 扶桑の艦橋
   
 
 そして宇宙戦艦ヤマトの絵もあった、バンダイと書かれていたらしいが
バンダイから依頼されたボックスアートなのかどうかは不明
  
 先生の工房、奥の資料も相当な量
   
   
   
   
   
   
 掲載写真は全て許可済です。






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報告;松永富夫
2016年10月1日 土曜日13時 JR静岡駅前にある静岡ホビースクエアにおいて上田毅八郎追悼展が開催された。
2016年6月18日死去、95歳の大往生だった。
失礼ながら亡くなられたのを全く知らず、9月23日の東京ホビーショーでハセガワ社長から知らされた。
晩年は施設に入り、葬式は家族葬、模型メーカーも知らない静かな死去だった。
「それではいけない」と田宮会長はじめアオシマ、ハセガワの静岡模型教材協同組合が音頭をとって
今回の追悼展が開かれた。
先生の工房にあった机は解体され、数千点あった絵はしょうけい館(戦傷病者資料館:東京九段)に寄贈された。
(近日水木しげる先生の作品とと公開予定)
残念ながらご遺族には模型関係者での先生の「神」的存在はご存じなっかた様だ。
式典は13時から1時間開催され、田宮会長らがお別れの言葉を述べられ、工房や生前の先生の様子が
モニターで上映された。
会場には3社が所蔵するボックスアートの原画が展示されたが、それでも数百点にのぼる展示に圧倒され
当然懐かしさも感じた。
式典の最後に遺族からプレゼント(形見分け)として来場者全員に残された鉛筆が配られた。一生の宝物だ。

上田先生は1920年8月30日静岡県藤枝市に生まれ静岡市内で育つ。
父親の職業を継いでペンキ職人として5年間ほど全国各地の建築現場で働く。
1941年20歳位のとき徴兵のため帝国陸軍高射砲第一連隊(浜松)に入営、後に船舶部隊(暁部隊)の
船舶砲兵に転科、輸送船の高射砲操作要員となり26隻の船に乗り、
南方北方の海を航海。航海中に出会った軍艦を軍事郵便葉書書にスケッチ
上官に見つかると殴られるのでものの5分で書き上げ弾薬箱に隠した。
3年8ヶ月の航海で6度撃沈され、最後に利き腕の右手自由を失った。
もちろん大量のスケッチも同時に沈んだが、絵を描くスピード、波や艦の色は現場で取得した感覚だった。
終戦後家業に戻るが、右手の不自由から在宅での絵描きに転身、左手で右手並みに描ける様になるまで
10年を要したと言われる。
当時まだ木製キットが模型だったころ、田宮会長から依頼を受け艦船のボックスアートを描き始め
WLシリーズはもちろん
ハセガワの飛行機、アオシマの車などあらゆるボックスアートを世に送り出した。
浜松にある庭付きの家はとても大きく、便所を借りたメーカー社員が戻れなくなるほどだったという。
工房は広く、そして汚い。資料は山ほど積まれている。無造作に描いた絵が置かれ、各メーカーが工房に行くと
他メーカーの新製品がばれたという。
高い筆もあったが、ほとんどは300円程度の普通の筆を使用した。鉛筆も含め「捨てられない人」だったそうなので
大量に遺品グッズが残されている。
メーカーの方に聞けば聞くほど逸話が出てくる「するめ」みたいな先生だ。
大型バイクに乗り、アクセルは右手首ではなく、右腕を廻して固定、高速に乗ってメーカーまで
絵を背負って納品したという。
下書きはなく、いきなりカラーで書き始める。頭の中にキャドが入っているから上方、下方の目線を動かしてどの
アングルからでも描ける。
筆の水分が切れたらカラーごと筆先を舐める。「この渋味がいい」とか。
イーゼルを10台並べ椅子を動かしながら同じカラーを点々と塗っていく。みるみる10枚の絵が出来上がるそうだ
(もちろん全て違う艦)。
油絵具は使用しない、乾燥に時間がかかるからだ。すべてアクリル水性のポスターカラーを使用し
波の一部だけカラー原液の厚塗りらしい。
とにかく早い、アオシマで依頼して、構図を検討している1週間の間に「おい完成したぞ」と電話がかかってきて
無駄な構図会議1週間だったと。
絵をよ〜く見ると、高射砲などは筆でちょんちょんと描いただけだ。それでもボックスアートになると
迫力ある高射砲に見えてしまうのは見事だ。

「ききょうや」(私)と先生の出会いは25年前、1991年5月の静岡ホビーショーだ。
先生は「静岡デルタクラブ」の一員として」ブースに座っておられた。
当時デルタクラブのブースには先生の絵が展示されており、「スゲー上田毅八郎の原画や」と食いついて見入っていたら
会長さんが先生を紹介してくださった。
子供の時からWLモデルで親しんできた絵を描いた本人・・・緊張・・など一切無く先生にぺらぺら話しかけた。
設立されて3年の大阪で意味不明の模型サークル、しかも20代の若造、そしてオタク。
そんな野郎に先生は1時間以上お話してくださった。
上記の撃沈話や絵の描き方、道具にこだわり無い話など、何を聞いても感動したものだ。
魚雷や爆弾で吹きあがる水柱には油や火薬の燃えカスが含まれており、独特の色や匂いがある
その水しぶきを被ると洗っても取れないいんだ!
軍艦の色?そんなものは海と波と天候の状況でどんどん変わる、グレーを塗っときゃいいんだ!
この目で大和見たよ、色?逆光で真っ黒だったよ!
道具は高いか安いかじゃなくて、自分に合うか合わないかだよ!
考えてる暇があったら描く、とにかく描くんだよ!そしたら何をすべきか見えてくる!
中でも一番頭に焼き付いているのは「遅いのは丁寧なんじゃない、へたくそなんだ!」という言葉だ。
そんな話をされながらポストカードをくださり、お願いしたらサインをしてくだされた。
生原画も手渡して見せていただいた。
「家に来なさい、もっと見せてあげるから」という優しい言葉に、ついに叶うことはなかったのが唯一の心残りである。
余談になるが、嫁の実家に挨拶に行った際、たまたま義父が艦船模型愛好家で、「お嬢さんをください」はわずか1分で終了、
その後2時間は艦船の話、そして先生の画集を発見し、先生との逸話を自慢してうらやましがられたのを覚えている。
先生、何から何までありがとう。
心からご冥福をお祈りします。
上田毅八郎(きはちろう)追悼展 1920〜2016